父への裁き
【私に父はいません。】
私は人に弱みを見せるのが苦手で、誰かから父について聞かれると、この一言で終わらせていました。
両親は離婚しているので嘘を言っている訳ではないのですが、生まれたときから知らない訳ではなく、今もどこでどんな暮らしをしているのかは解りませんが、間違いなく存在しているので、本当にいないのとは違う気がします。
けれど、あまり父親について触れて欲しくないので、ついこう言ってしまうのです。
父は、“浮気”をし、“賭け事” をして “借金” を作った挙句に、家を出ていきました。
なので特に思春期のときは、“父親失格” だと思い、恨んでいましたが、大人になるにつれ、“世間的には良くあること” として、責める気持ちが少しずつ和らいできました。
それでも残るシコリを手離すために、心理学系の本を読んだりワークに参加したりして、父に対する憎しみの感情を手離してきました。
そして今日は “父の日”。
本当に許せているなら、連絡先を誰かしらに聞いて、電話の一本でも掛ければ良いのですが、そんな気持ちにはなれない私がいました。
そのかわりに、私は今日一日を使って、父と母のこと、父と私のこと、私たち家族のこと、そして父の人生や過ちについて、さまざま立場に立って想いを巡らせていました。
私の人生で、その存在を消そうとさえしていた父について、こんなに考えてみたことはありません。
そして私は自分の中にまだしっかりと消化しきれていない感情に触れました。
「本当はもっと、私を愛して欲しかった」
けれど、それを表現することによって、拒絶され、傷つくことを避けるために、私は “大人” になったのです。
3歳くらいまでは父を慕っていた記憶があるのに、5歳くらいの記憶の中では、既に私は父との距離を感じている…
その間に何があったのかを思い出そうとしたけど、今となってはもう思い出せそうにありません。
ただ、その時からずっと私は「愛されない」人生を歩んできました。
それは、「愛してくれなかった」父への裁きの人生です。
今日一日で、父を許せるようになったなんてキレイごとは言いません。
でも気づいたことはいくつかあるので、そこからまた少しずつ変わっていきたいと思います。
父が生きているうちに、言葉に出来る日が来るのかわからないけど、今の気持ちをここにしたためておきます。
ごめんね、パパ。
もっと私が素直な子どものままでいれば良かったね。
本当はもっと優しい娘だったら良かったね。
もっと心が広くて、何でも許せる娘だったら、きっとパパも、もっと幸せな人生を歩けてたかもしれないね。。。
許してね、パパ。