越えられない試練はない?!
【私は今、生きようと努めている。 というよりも、
どのように生きるかを、
私の中の死に教えようとしている。】
Here I am trying to live, or rather, I am trying to teach the death within me how to live.
1889年の今日7月5日、パリ近郊の町で
フランスを代表する芸術家が誕生しました。
彼の名はジャン・コクトー。
20歳の時に詩集を出版し、その後はピカソやモディリアーニをはじめとする数多くの芸術家と交友し、
自身も小説や脚本、絵画、映画監督など、多才な才能を発揮して活躍しました。
そんな彼の華やかな人生の中には、2つの大切な人の死が存在します。
ひとつは彼が8歳の時に自殺した父親の死。
もうひとつは彼が34歳の時に病死した恋人レイモン・ラディゲの死です。
15歳のラディゲと出会い、彼の文学的才能を見出したコクトーは出版のために奔走し、彼が小説家となってからは二人で旅行に出かけるような幸せな時を過ごしていました。けれどラディゲが20歳のとき腸チフスよって亡くなってしまうのです。
「あなたに越えられる試練しか与えられない」
深い悲しみの中に居る人に、よくこの言葉を使って励ます人がいます。
私自身も、大切な人の死を乗り越えられずにいたときに、この言葉で励まされたことがあります。
勿論、励まそうとしてくれる “気持ち” は嬉しかったのですが、正直その頃は、この言葉に何の救いも感じられなかったですし、どこか違和感さえ覚えました。
たとえば、コクトーという偉大な芸術家の生涯をこうして客観的にみれば、二人の大切な人の死に意味を見出すことも出来ますし、「乗り越えられない試練はない」ということも間違っていないと思います。
けれどコクトーというひとりの人に想いを寄せたとき、そこにはアヘンに溺れてしまうほどに、もがき苦しみながら生きるようとする心があり、この言葉で片付けるにはあまりに短絡的な気がしてしまうのです。
人との関わり方で何が正しいのかは解りません。
けれどもしかしたら、素敵な励ましの言葉を口にするより、もがき苦しみながら生きるようとする心に気づこうとする… それだけで人は十分なのかもしれません。