dramaticlife-japan’s blog

ドラマティック・ライフは、「自己啓発セミナー」×「レイキ」の教えを融合させたオリジナルセミナーを定期的に開催しています。

わたしが日本代表 ?!

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【諸国から訪ねるの旅人たちよ。この島を守るために、

  日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、

     そして玉砕していったかを伝えられよ。】

 

パラオペリリュー島にある神社には、

太平洋艦隊司令長官であったニッミッツ提督の、

この言葉が刻まれた石碑があるそうです。 

 

 今日7月9日は、パラオ憲法記念日

 

 

パラオと言えば今年の4月に、戦後70年にしてはじめて

天皇皇后両陛下が激戦地を訪問されたということで話題になりました。

 

パラオがなぜ激戦地となったかと言うと、大戦中この島は、グアムやサイパンへの後方支援や、

フィリピン防衛のための重要な場所であり、中でもペリリュー島には大きな飛行場があったので

日本軍にとって特別重要な場所だったからです

 

けれど時は1944年9月。ペリリュー島を死守する覚悟の日本軍守備隊に対し、アメリカ軍は6倍もの兵力で攻めてきました。

 

この小さな島に6倍の兵力です!!

早ければ半日、長くても2~3日と思っていたアメリカ軍は、この島の戦いで “大和魂” に触れたと言います。1万人ほどの守備隊は、73日もの間この島を守るために戦い、生き残ることが出来たのはわずか50人足らずでした。

 

ペリリュー島 “天皇の島” と呼ばれるのは、この守備隊に対して、

昭和天皇が11回もの賞賛のお言葉を送られたからとも言われていますが、

私はこの守備隊の戦いぶりを讃えて、こう呼ばれているように思えます。

 

 

そして、さらに賞賛したいのは、島の人たちが誰ひとり被害にあわなかったことです。

 

当時このペリリュー島には899人が暮らしていて、それまで親しくしていた日本人が不利な戦況であることを知ると、島の人たちは一緒に戦いたいと、守備隊長である中川州男陸軍大佐に申し出たそうです。

 

ところが、それを聞いた大佐は、

 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」と一蹴しました。

 

この大佐の言葉に傷ついた島の人たちは、島を出てパラオ本島に行くことを決意し、日本軍が用意したに船に乗りこみました。

自分たちが親しいと思っていた日本人は誰一人見送りには来ない…

そう寂しく思いながら離れていく島を眺めていた島の人たちは、この直後に驚きと感動を目にします。

 

船が島から離れたことを確認してから、日本兵が浜辺に走り出してきて、一緒に歌った日本の歌を歌い、手を振ってくれたからです。そして、そこには中川大佐の姿もありました。

 

その時になってはじめて、中川大佐が自分たちの命を救ってくれたことに気づいたのだそうです。

 

ペリリュー島の人たちが今も親日感情が強いのは、この中川大佐という人の素晴らしさを通して

“日本人” を観てくれているからだと思います。

 

 

海外旅行に行くと「あなたはどこの国の人?」と尋ねられることが多くなります。

そこで私が日本人だと答えたときから、その質問をされた方にとって私は日本人のイメージになる

…つまり私が “日本代表” なんですね!!

 

 

“日本” に限らず、その国に対するイメージは、“その人が知っている数人の人” のイメージによって創られているように思います。

なので “国” のイメージは、私たち一人ひとりの言動によって、良くも悪くも簡単に変えることができるのではないでしょうか…??

 

愛の手紙―ペリリュー島玉砕 中川州男大佐の生涯

愛の手紙―ペリリュー島玉砕 中川州男大佐の生涯