わが祖国へ
【美とは善であり、それは内面的な世界(精神)と、
目に見える外的な世界との調和である。】
1860年の今日7月24日、チェコの片田舎の家庭に、
アール・ヌーヴォーを代表する画家と称される
アルフォンス・ミュシャが誕生しました。
1894年 ミュシャが34歳のとき、経済的理由からクリスマス休暇中に印刷会社で臨時の仕事をしていると…
大女優のサラ・ベルナールからポスターの依頼があり、デザイナーが休暇中だったので急遽ポスター未経験のミュシャが描くことになったのです。
これがミュシャの出世作にして代表作である写真の絵「ジスモンダ」誕生のお話です。
当時人気だった派手な色のポスターとは全く違う、一風変わったミュシャのデザインを
サラは気に入って採用し、パリの街にポスターが貼りだされると、たちまち大評判となり、
彼は一夜にして有名になったといいます。
…このエピソードだけを知る人は、たまたまデザイナーが留守中に依頼を受けたラッキーボーイだと思う人もいるようですが、私は冒頭の言葉のように、ミュシャの芸術に対する純粋な想いがあってこその幸運だと感じます。
そして彼の人生をたどると、決して幸運なだけではないのです。
歩くより先に絵を描き始めたと言われるほどに、早い時期から自らの才能に気づいた彼は、
18歳の時にプラハの美術学校を受験しますが失敗してしまいます。そこでウィーンにある舞台美術の
工房で働きながら、夜間に絵画教室に通って絵の勉強をするのですが、劇場が火事になり工房の
仕事が無くなったために解雇されてしまいます…
その後パトロンだったエゴン伯爵の援助でミュンヘンやパリで芸術活動を続けていたのですが、その
支援もやがて失い、生活のために雑誌や本の挿絵の仕事をするうち、次第に評価を得ていったのです。
そんな状況下に「ジスモンダ」で有名になります。
この成功によって、アール・ヌーヴォー(新しい芸術)という言葉の意味通り、従来の様式に囚われず、
花や植物などをモチーフにした装飾性の高い芸術の中心的画家として世界中で注目され、
デザインの注文が殺到します。
1908年、48歳のときにアメリカの地で、スメタナの「わが祖国」を聴いたことに触発され、
自分も芸術的才能を祖国に役立てたいという想いから、1910年、チェコに戻り18年の歳月をかけて祖国のスラブ民族の歴史を絵にした “スラヴ叙事詩” を制作します。
1939年、祖国がナチスドイツに侵攻され、ミュシャは愛国心を煽る画家という理由から逮捕されます。厳しいい尋問は、78歳の彼には負担が大きく、釈放されて4ヶ月後に亡くなりました。
ミュシャの使命は、芸術によって人々の生活の質がより豊かなものになること。
だからこそ、ふんだんに「美」が散りばめられた彼の絵を多くの人が求めたのだと思います。