お花のケーキ
今日はクリスマスイブですね♪
東京の友達からクリスマスケーキらしき宅急便が届いたので、
驚いて開けてみると、お花で出来ていましたヽ(´▽`)ノ
皆様、素敵なクリスマスをお過ごしください☆
ANY DAY NOW ー いますぐにでも -
【マイノリティがマイノリティを差別する】
今日は冬至で夜が一番長い日。
明日はお休みなので柚子湯にのんびり入って、
映画を観ながら夜更かししたいと思います
(# ̄ー ̄#)ニヤ
さて、私が最近観た映画で印象に残っている作品は、
「チョコレートドーナツ」です。
この映画は、ゲイのカップルがダウン症の子供を養子にするのですが、ゲイに対する偏見が今より
ずっと強かった70年代のアメリカが舞台なので、幸せに暮らしていくはずの3人は、法の「正しさ」
に裁かれ離れ離れになってしまう、という物語です。
なので、映画の最後はやり切れない悲しみと感動とが入り混じっていました。
冒頭の言葉は、マツコ・デラックスさんが人が差別する心理を語られたときの言葉で、その後に
人は知らないこと、知ろうとしないことには、得体の知れない恐怖心があるので、自分たちより
劣っていると思うような少数派で弱者と思う人を差別することで、自分たちを守ろうとしているのでは
…という持論が紹介されていました。
この映画の時代ほどではないにしろ、今でもゲイの人たちに対する偏見はまだまだあるように思います。
ネットで自由に自分の意見を書き込める時代だからこそ、こうしたマイノリティの方に対する
心無いコメントを目にすることがあります。
そして、そのコメントに対して痛烈に批判するコメントも…
そんなやり取りを目にして、私は何か違和感を感じました。
ゲイを主人公にした映画では、ゲイを理解しようとする人は “いい人”、理解しようとしない人は
“悪い人” というように明確に描かれていて、主人公目線で観ている私たちは、あたかも自分が良き理解者であるかのように思い込んでしまう節があります。
けれど実社会の中で、本当に全てを偏見の無い目で見ていると言い切れる人が
どれだけいるでしょうか?
本当に大切なのは、“正しさ” をぶつけ合うことではなく、
お互いが自由に本音を語り合い、その相手の想いを知ろうとすること。理解し合うこと。
この映画の原題は「ANY DAY NOW」
いますぐにでも、こんな偏見が無くなって欲しい …きっとそんな想いが込められているのだと思います。
ゲイに限らず、多くの差別や偏見がこの世界から無くなることを私も願うのですが、だからといって
差別や偏見をする人を批判するだけで満足してしまったら、永遠にこの闘いは終わらない…
そんな風に思うのです。
■
【誰もが光と影を持っている。
大事なのは何を選択するのか。
それが自分というものを決定づけるのだ。】
1999年の今日12月8日は、J.K.ローリングのファンタジー小説
「ハリーポッターと賢者の石」が日本で出版された日だそうです。
冒頭の言葉は、シリウス・ブラックが
ハリー・ポッターに言ったセリフです。
『誰もが光と影を持っている』
このことを正直に認めることが出来た人ほど、
本物の光が与えられるように思います。
“いい人” を演じているうちは、
自分の中にある影の部分を
見破られないことに意識を置きすぎてしまうから、
でも、私は聖人君子でも、並外れた凄い人でも無いんだと
小さな小さな器の自分を認めてしまったときに、
はじめて本気で、「こんな自分でも出来ること」にスイッチが入る
そんな気がします。
いい人と言われて生きても、
音のある世界へようこそ!
【ハリウッドでは、“それ” から逃げられない】
1927年の今日10月6日は、世界初のトーキー映画
「ジャズ・シンガー」がニューヨークで公開された日。
トーキー映画というのは、無声映画の対義語である
発声映画のことで、Moving Picture を “ Movie ”
と呼ぶのにならい、“ Talking Picture ” から
出来た言葉だそうです。
それまで無声だった映画が、ここから飛躍的に技術革新して、今では映像と音が同時に流れることが当たり前すぎて、“トーキー映画” なんて言わないですね (^_^;)
新たな技術が開発されていくということは、どんどん世の中が良くなっていくこと…
なのかもしれませんが、無声だから良かったということも少なからずあるようで、声を出したことによって俳優の一部の方たちが仕事を失ったというのですから、意外な被害があるものですね?!
冒頭の言葉は、この約2年後1929年に「PHOTOPLAY」の雑誌の表紙に書かれた文字で、無声映画の頃には絶大な人気があった女優、ノーマ・タルマッジ(上の写真)の絵が描かれています。
“それ” というはトーキー映画のことで、声が出てしまうので、彼女は下品な声を隠すことが出来なくなったという皮肉が込められているのです。
このような時代の変化は、いつの世にも多かれ少なかれ起こることですね。
なのでもし、あなたがこの時代のノーマ・タルマッジの立場だったら?? ということを、少し想像してみてください。
どんな感情を思い浮かぶでしょうか?
「やり切れない」、「悔しい」、「プライドが傷つけられた」…
そんな想いでいっぱいになったでしょうか?
でも、こう考えた方もいらっしゃるのでは?
「無声映画の時代に、女優でいられて良かった!!」
そう、私たちは 出来事のどの部分に焦点を当てるかによって、感じる感情さえも自分が選択出来るんですね (^_-)-☆
夢の種をまくとき
【ものを観るのに、目を開けただけでは足りない。
心の動きがなくてはならない。】
1814年の今日、10月4日にフランスで誕生し、
農民画を多く描いた画家
ジャン=フランソワ・ミレーの言葉です。
ミレーは本国フランスよりもアメリカで先に認められ、
農業が盛んな日本でも早くから受け入れられました。
「種をまく人」は、岩波文庫のシンボルマークに使われています。
私はずっと知らなかったのですが、敬虔なキリスト教徒であったミレーが描いた、この「種をまく人」は、キリストを農民にたとえた姿で、信仰という名の種をまくキリストの姿なんだそうです。
そのことを知って、改めてこの絵を心で観たとき、私が一番に感じたことは、
この種をまく姿が「自然体」 であることです。 いい意味で、力が入っていないんですね。
私はつい、自分が意図する方に物事を運ぼうとして、力みすぎてしまうことがあったりします。
「こうなりたい!」
「こうであったらいい!!」
そう思うことは大切なのですが、その想いが強くなりすぎると
「こうあるべきだ!」
「こうでなければならない!!」
になって、夢や理想が、エゴや執着に変わってしまうのです。
この絵の「種のまく人」は、種に向かって “必ず芽を出すんだぞ!” っといったエゴを持っているようには見えません (笑) ただ、種をまいているだけなんですよね、きっと。
それはこの時、心の中では芽が出ることを知っているからです。どれくらいの割合で、どの種が芽を出すのかはわからなくても、ちょうどいい具合に芽が出ることが解っている…
この姿こそ、夢の種をまくときの理想的な心の在り方なんだなぁって、そんなことを教えてもらいました。
これからは、岩波文庫のマークを見たら、
「いまの私は自然体?」
そう、問いかけてみようと思います (#^.^#)
奇跡の世界への入口
【無知というのは、
しばしば知識よりも確信に満ちている。】
進化論で知られるチャールズ・ダーウィンの言葉です。
22歳のダーウィンを乗せたビーグル号は、
1831年12月27日に出港し、3年の予定を大幅に超えた
1836年の今日10月2日にファルマス港に帰着しました。
ダーウィンはこの航海でガラパゴス諸島をはじめ、さまざまな土地で多種多様な生物を観察できた
ことが、のちの進化論に大きな影響を与えたと感じていたようです。
生物学と言われるとちょっと取っ付きづらいイメージですが、なんとウォルト・ディズニーが
ダーウィンを題材にした映画を企画しているようなので完成が楽しみです◎
さて冒頭の言葉は、知識がある人よりも、無知の人の方が自信があると言っているのですが、この言葉には続きがあります。
「さまざまな問題を科学によって解決することは絶対にできない、と主張するのは、
決まって知識がない人である。」
私はこの文章を読んでドキっとしました。
ダーウィンが指す “無知” …これこそが、私たちが陥りやすい常識という名の観念で、これによって
私たちは自分や周りの人の可能性の芽を摘んでしまうことがあるからです。
自分が想像できる範囲以外のことを言われると、
「そんなこと、絶対にムリ!」 「あり得ない!」 …なんて、実は私も以前はよく言ってました。
でも、この “絶対にムリ” に対して「ホントにムリなの?」って疑問を感じ始めると、意外と
「 “絶対にムリ” って思ってたことが、出来ちゃうもんなんだぁ!!」
って思うような出来事が日常に増え始めて、いまでは、
「 “絶対にムリ” って言えることの方が少ないかもしれない?!」
…なんて思えているほど、気づかぬうちに多くの奇跡に触れさせてもらいました。
いきなり180度違う発想に変えることは簡単ではないですが、
“いままでよりも少し広い可能性を探してみる”
これが、日常の中にある奇跡に触れる世界への入口かもしれません。
今日の写真はガラパゴス諸島に生息している “青脚鰹鳥(アオアシカツオドリ)” 。
ペンキの容器に足を入れてしまった!! (≧∇≦) …みたいに、青い脚がウソみたいにかわいい♪
衣替えシーズン
【四時の序、功を成すものは去る】
今日10月1日は、年に2回の衣替えの日。
この衣替えは平安時代からある風習で、
はじめは着るものだけだったものが、後に装飾品までも
季節によって変えるようになっていったのだそうです。
気が付けば、街のショーウィンドウはすっかり秋の装いで
加えて至る所にハロウィンの装飾が…
まぁ楽しむことが何より幸せなことだと思うのでいいのですが、私自身は本当にささやかに
日常のスペースに季節を取り入れられるような、粋な心遣いが出来るような人になりたいなぁと思います。
さて冒頭の言葉は、新しい季節が来たら、その季節に場を譲るのが自然で美しい…
つまり、成功者だからといって、いつまでもその座にしがみ付くのではなく、役目を全うしたら、
次の者へきちんと道を譲ることが出来て、本当の成功者だという意味だそうです。
成功者というと他人事に思えてしまうこともありますが、人というのは誰もが自分を認めて欲しいという欲を思っているようなので、そのことに気づかずにいると知らぬ間に自分の成功体験や自慢話を何度も繰り返し語っていたりします。
たとえ私が、どんなに過去の成功体験を熱く語ったとしても、相手が見ているのは
“いま目の前に存在する姿” です。なので成功体験という話の内容よりも、その体験によって、私がどうあるかということを見ているということです。。。
成功体験をどう自分に活かしていくのか?
自分の役割は何なのか?
そんな一旦止まって自分自身を観る機会を、このドラマティク・セミナーを開催する度に、
私も受講された方と一緒に毎回、考えさせられています。